外遊びは多かれ少なかれ危険な状況と隣り合わせです。
そんな危険を避けることは大切ですが、管理された状態で、危険を体験させることも非常に重要なことと考えます。

子供にどう刃物を持たせるかなんていう議論のなかでよく出てくるのですが、

「危ないものを持たせるなんてどういうことだ!!(怒)」
「いやいや、小さいうちから持たせないとかえって危ない!!」

あるいは、昔は「溺れて泳ぎがうまくなる」なんて言う荒療治も少なくなかったような気もします。
危ない思い、辛い思いは、やらずに済むならやらずに済ませたいところですが、やはり辛い思い、痛い思いをしておぼえることも大切な一面だと思います。

痛い思いを繰り返して痛くならないように気を付ける。
転んで転んで、転ばなくなる。
刃物でちょっと手を切った経験があると、そのあとは、切らないように注意して使うようになる。


う ちの母は、石油ストーブが危ないというのを分からせるために、消火後、ちょっとだけ触れて「熱っ」ってなるギリギリのところで、僕の手をストーブに触らせ たそうです。事前にちゃんと自分で触れてやけどしないことを確認してからだそうなのですが、触らせる本人も相当ドキドキしていたそうです。触らせた瞬間は 大げさに騒いで、「こりゃもう大変」的な雰囲気を作り出して、しっかり学習させたんだとか・・・。

何しろものごころつく前の話なのでわたく しサッパリ覚えていないのですが、ストーブに対する恐怖心はちゃんと学習したようです。と、同時に、ストーブの扱いも少しずつさせはじめたとか・・・。怖 くて近づかないじゃなくて、怖いけどちゃんと使うえば大丈夫というのとセットで学習させてくれたんだそうで。恐怖と便利と使い方がセットで身についていく という、わが親ながら見事だなあと思うことしきり。

かたや、うちの父。外で遊んでいた時に、転んでひざから血を流す僕に向け優しい言葉をかけてくれた記憶はほとんどなく・・・。「その位騒ぐに値せず」な雰囲気をがっちりと作り出し、いわゆる「かすり傷」はさほど気にする必要ないことをしっかり教えてくれまして。・・・。
たしかに、ものごごろついたころには、ちょっと血が出たくらいならそのまま遊んでましたね。
相当後々に聞いてみたところ、「遊んで気が逸れる程度のけがや痛いのはすぐに問題はないだろ」とのこと。処置をするなということでなく、「必要以上に慌てず騒がず、落ち着いて動けよ」ということだったらしいです。まあ、親父殿も昭和一ケタの豪のもの(笑)。
時代や環境というのももちろんあるでしょうが、それでその場をなんとかしのげるのなら、その場で落ち着いて考える余裕もできるというもの。

ちょっと痛いの慣れや、ちょっと怪我慣れは、しといて損はない気がします。昔は「つばつけときゃ治る!」とか言ってましたし相当それでなんとかなってたもんです。
(最初の処置でツバつけろっていうのを推奨してるわけじゃないです。誤解のなきよう)

まあ、諸々感染症とかなんとか時代とともに常識も変わるので、そのまんまってわけにはいきませんが、自分の子供にはそんな感じで接してます。


この「危ないを体験」というのは、じつは非常に難しい位置づけで、こういうことをしようとすると「危ないからやめさせなさい」という声が上がります。

それもまた一面として正しい反応です。危険から遠ざけることとは保護者、育成者、管理者としては当然の心理であり責任でもあります。

ただ、危険から遠ざけてあげることは、危険回避能力の育成を阻害する一面や、危険自体を認知できなくなる可能性もはらんでいます。

まず、大体において野外活動というのは非日常の危険を常にはらんでいる活動です。その中で活動させるつもりであれば、ある程度の危険の認識や体験も必要であるはずです。


「危ないを体験」させるということは、それ自体が危険をはらむ行動であるということをしっかり認識する必要があり、安全に行うためには丁寧かつ慎重な運用が必須です。

リアリティのある、「疑似体験」というのももちろん非常に有効な学習手段であり、むしろ教育という枠の中ではこの「疑似体験」で本物の危険を回避するということは必要です。
しかし、疑似はあくまでも擬似であり、周辺環境などでリアリティを追求していけば、その「疑似性」が薄れていく状況も十分考えられます。

前述の体験から言えば、「熱いと感じるギリギリ」というのは、「疑似体験」なのか「管理された本物の危険」なのか?正直判断に困る部分でもあります。

そして、危険の基準というのも、一考すべきものです。「安全の基準」の投稿でも書きましたが、安全の対局である「危険」についても基準(レベル)というものがあるべきですが、当然これも不変ではありません。

管理された「危ない体験」を適切に重ねていくことで、自身にとっての危険の基準が変わってくれば、もうほんのすこし先の「危険の体験」ができることになります。
そしてこの経験を重ねるにつれ、さらに、より慎重な運用が必要となります。

スポーツトレーニングなどでも、本人の現在到達レベルのほんのすこし先に目標設定を行い、最終的なレベルアップを図るということがありますが、まさに同様の手法です。
(スモールステップ法と呼ばれる指導法です)

この経験や学習は、適切に運用、提供されれば「高品質なトレーニング」と呼ばれるべきものでしょう。

た だ、訳も分からず面白半分にやってみたり、ただ「気合で乗り越えろ」というような「危険の体験」、あるいは武勇伝的なものを求めて危険を欲してしまう場合 など、この段階を非常に大きくとって、いきなり大きな危険を体験させること(危険を超える体験をさせること)と誤解されている節があります。それはトレー ニングでも体験でもなく、ただのギャンブル、あるいは暴挙です。
「少し先の危険」であるからこそ体験させることが可能なわけで、時間がないからとか、たぶん大丈夫だからなどで見込み運用されるべき範囲のものではありませんよね。

極論ではありますが、赤ん坊にとって、立ち上がるということは、転倒の危険がすぐそばにある、周りの大人もヒヤヒヤの一世一代の大イベントです。
しかし、ほんの少し大きくなれば、立ち上がるどころか、歩く、走る、跳ねるなんて言うことがごくごく当たり前にできるようになり、立ち上がるという行動は基本動作化して危険な行動ではなくなります。

個人個人が、身に迫る危険を、素早く認識、回避する能力を育てることが、「危ないを体験する」ことの目的です。